東京パラリンピック開会式で超絶ギターを全世界に轟かせた全盲のギタリスト、田川ヒロアキに迫る! ~田川ヒロアキの創作活動を支えるTASCAMの歴代MTR~
東京パラリンピック開会式で超絶ギターを全世界に轟かせた全盲のギタリスト、田川ヒロアキに迫る! ~田川ヒロアキの創作活動を支えるTASCAMの歴代MTR~
2021/12/08
取材:編集部(斎藤一幸)/加茂尚広さん(ティアック)
◉ 驚きのラジカセ・テクニック!
ー田川さんの宅録歴について教えてください。
田川:実は幼少の頃からラジカセで遊ぶのが好きで、テレビやラジオの音だけでなく、歌とか楽器などを録音していました。でも、いわゆる昔のラジカセなので録音できるのは楽器か歌のどちらかで、テレビやラジオで流れている音楽みたいにするにはどうすればいいかと子供ながらに思っていました。色々と触るうちに、うちのラジカセがたまたまだったのかも知れませんが、録音ボタンを半分だけ押すと前の録音も半分残っているということに気付きました。
ーそれは初耳ですね。カセットテープに録音ヘッドが触れる際に微妙な裏技があったのかも知れないですね。
田川:それで録音ボタンを半押しすると前の音も残っており「よしこれだ!」と思いました。まず、歌を1回歌い、同じタイミングで録音ボタンを半押しながらハモリを歌ってみたんです。そしたら音が重なって「ハモった!はいはい、これはいけるぞ」と。でも最初の録音はモニターができず、もちろんメトロノームもないから自分が歌ったタイミングを覚えて感覚で歌っていました。ひとりアカペラを五声、六声と重ねていたんです。
ー録音は、何回でも重ねられましたか?
田川:何回でも重ねられますが、10回も重ねると最初のテイクがちっちゃくなるので、最初は思いっきりラジカセに近づけて大きな声で歌い、2回目、3回目からはちょっとずつ離れて小さい音量で録音していくっていう。
ーまるで人間ミキサーですね。
田川:幼稚園から小学校低学年ぐらいの時にそういうことをやって遊んでいました。当時ゴダイゴとかラッツ&スターなどのコーラスグループが好きで、そういうのを真似てピアノも弾いていました。それが私の最初の宅録のルーツでしょうね。宅録と言えるレベルでは無いかもしれませんが。
ティアック:その録音方法ってレス・ポールがやったことと一緒ですね。レス・ポールはマルチトラックレコーダーを発明しましたが、その前は、レコードのダイレクトカッティングに重ねて演奏することで多重録音をしていました。彼は1枚目の音が小さくなることを逆算して録音していたそうなのですが、田川さんは幼稚園とか小学生の時にやっていたというのが衝撃ですよね。

一同:おぉ!凄い!
ー今までインタビューした中で録音がラジカセスタートの方も多かったのですが、田川さんのラジカセ技術は群を抜いて凄まじいです。
田川:私的にはそれが普通だと思っていました。外で遊ぶのも大好きでしたが、当時はほとんど目が見えてなかったから、外で友達と”駆けっこ”してもぶつかったり、転んじゃったりして。そのぐらいやんちゃでしたが、家ではカセットテープで遊ぶのが好きでした。そして、中学時代にはダブルカセットを買いまして、1台で完結できるので音質の劣化も2台のラジカセよりは少なめでした。デモテープも中学校のときから作りはじめて、組み始めたバンドのメンバーにも私がデモテープを作って届けていました。
◉ 田川さんの創作活動を支えるTASCAMレコーダーの遍歴

田川:20歳前くらいです。ラジカセの話を楽器店でしたら「そんな面倒くさいことやってんだ」って言われて、じゃあこれどうって「MTR」を勧めてもらい、それがTASCAMだったんです。「PORTA ONE」かな?。実際にお店で録音を試させてもらうと「うわっ!こんな便利なもんがあるんだ。しかも普通のカセットテープでこれができるんだ!」ってわかり、早速購入して自宅に持ち帰りました。今までテープの録音で苦労してきたことが一気に解消されましたね。なんて便利な物なんだって。
ーMTRの存在はご存じだったのですか。
田川:いえ。バンドをやっている時に知り合いからTASCAMのオープンリールを借りたことがありましたが、多重録音は大きなプロ仕様の機材じゃないとできないと思っていました。それがカセットテープでできるとわかり、一気に自分の世界が広がりました。
ーそのMTRをどのように活用されたのですか。
田川:スタジオに持ち込んで録っていましたね。もちろん自宅ではやりたいことをもっと自由にやっていました。例えばドラムがないので、ダンボール箱のドラムセットを自作したり。足元のキックはかまぼこ板二つを並べて、先っぽに丸いものをつけて踏むっていう。しかもツーバスで。長谷川浩二さんに憧れていたんです(笑)。
ーシンバルとかカナモノは?
田川:それもないのでクッキーの空き缶を叩いたり、ハイハットのシャリシャリ音はスーパーのレジ袋を張って出したり。ベースギターも持ってなかったから、ギターの音を1オクターブ下げて弾くとかそういうことをずっとやってました。
ティアック:実際録音された音ってどうでした?
田川:最初は思ったように鳴らないけれども、スネアはせめて本物っぽくしたいと思いまして、段ボール箱の中にクッキーの空き缶を入れて、その空き缶の中にサイダー瓶の蓋を何枚か入れるんです。それでスネアに見立てた箱を叩くとスナッピーの原理でスプリングが共鳴して鳴るというような。なんか本物っぽくなってきたって感じでしたね。
ティアック:実は、奥田民生さんがYouTube(https://youtu.be/XOUKg68sTaw)のカンタンカンタビレで全く同じことをやってるんですよ。民生さんはバスドラムの代わりにダンボールを踏んで、スネアはマクドナルドのビッグマックの箱にコイン入れて、ハイハットはナイロンの折り畳み傘の袋を使ってドラムの音をバッチリ出されています。
田川:あっ、やっぱり同じですね。
ティアック:それとほぼ同じことをやられており驚きです。民生さんも同じようにアナログのマルチで、スピードを変えて録ったりと工夫をされてドラムサウンドをDIYで作られていて衝撃的でした。
田川:私もスピードを変えることはやっていて、バスドラは等速だとパコパコするのでMTRのスピードを落としてピッチを下げていました。
ー当時はそういった情報もなく独自に研究されていたのですか。
田川:そういう情報は何もなくて、インターネットもないし、そういう話をする人もいなかったです。ちょっとでも本物に近づけるにはどうすればいいか?っていう研究がとにかく好きなんですよね。「いつも自分が聴いているような音楽の音とどうちがうんだ?」っていう、それはギターの練習にしても同じですが、そこに近づけるにはどうすればいいんだという一心でしたね。

▲TASCAM「PORTA ONE」

田川:そうです、私の視力は中学1年生のときにはもう光が全然見えなくなって。エレキギターを始めたのと同時期でした。視力が落ちたということよりも、とにかくギターが弾けるようなったことが楽しくて、楽しくてしょうがない時期でした。ギターをうまく弾けるように工夫したり、多重録音で自分の音を膨らませたり。宿題よりも先にそれをやっていました(笑)。
-TASCAMの「PORTA ONE」の操作方法なども触りながら覚えたのですか。
田川:基本のところだけ楽器店の店員さんに教えてもらいました。ずっと付きっ切りというわけにもいかないので、あとは自宅で触りながら覚えるみたいな。アナログ機器なのでなんとなく触ればわかると思っていましたが、ラジカセとはやっぱり感覚が違って。最初は慣れるまでに時間がかかったところもありますが、コツを得てからは早かったですね。
-さんざんピンポン録音されていましたからね。
田川:そうですね。ピンポン録音をすると音質が落ちることは知っていたのでメタルテープを使うとか音質にもこだわりはじめましたね。
-その後、アナログ環境からTASCAM「DA-88」というデジタルレコーダーに移行されましたね。
田川:雑誌でDATの存在を知りMTRでピンポンして音質が落ちる分を4トラックずつDATに落とし、それをまたMTRに戻すということを始めたんです。それは1年ぐらいやっていました。たしか1993年だったと思いますが、楽器店に行くと「8ミリビデオテープを使って、しかも8トラック録れるレコーダーが出たよ」って聞いて。それが「DA-88」でした。最初は値段を聞いてびっくりして※、私にはちょっと買えない金額だでしたが、オールディーズの仕事とか営業回りをいっぱいやってお金を貯めて。それでキャッシュ一括で「DA-88」を購入しました。
※DA-88 当時の販売価格 750,000円(税抜)

▲TASCAM「DA-88」
田川:楽器店の店員さんに使い方を教えていただきました。デジタルだからカセットMTRのときのような感じにはいかないので、このボタンを押してみたいなことを教えてもらって。あとはもうテープレコーダーの感覚の応用で学んでいきました。
-デジタル8トラックになったら作業は楽になりましたか。
田川:そうですね。ただ、あっという間に8トラックでは足りなくなり、ピンポンでDATに落としてました。その頃からアナログミキサーを使った8イン8アウトの環境を作って、ずいぶん録音環境がステップアップしました。音質も落とさずにCDレベルの音が作れるようになったので、地元のCMソングとかラジオのテーマソングとか手がけました。
-その頃はまだ東京じゃなかったのですか。
田川:当時はまだ山口県にいました。地元でプロとして仕事を受け始めた頃だったので、「DA-88」を導入してずいぶん助かりました。ただ今度は「DA-88」でもトラック数が足りなくなりました。ところが、今度はタイミングよく廉価版の「DA-38」が出まして。しかも、たまたまそれを譲ってくれる人がいて「DA-38」を3台譲ってもらいました。それで32トラック環境になり作業もずいぶん楽になりましたが、今度はミキサーのチャンネルが足りなくなってきたんです。その時にデジタルミキサーの「DM-24」を勧めてもらいまして、高かったんですが思い切って買っちゃいました。ギターは2〜3万円のものでステージに立つこともあって、そんなにお金をかけてこなかったんですけど、録音機材にはお金をかけましたね。おかげ様で音も本当に良くなりましたね(笑)。

▲TASCAM「DM-24」
田川:「DM-24」のコントロールの使い方とかはわからないから、当時広島支社のTASCAMのスタッフの方に山口まで来ていただいて教えてもらいました。修理をお願いしたときもすぐに対応していただきましたね。デジタル環境のセッティングからすべてやっていただき、そのときにメーカーの方にサポートしていただける強みを凄く感じました。
-お話を伺うと、ずっとTASCAM製品ですよね。他社製品もあったと思うのですがTASCAM製品を使い続ける理由みたいなものはあるのですか。
田川:自分が初めて手にしたのがTASCAMだったというのがまず一つあります。その安心感と音質ですね。それからやはり操作性です。その後、他社メーカーから色々なMTRが出ていることを知って、実際に買ってはいます。やはりそれぞれの特長というのがあるので、あの機種にはこの機能がないとか、私なりに工夫して使うようにはしてました。ある時期にはまだ8トラック仕様の小型レコーダーがTASCAMにはなくて、しばらくは他社製品をメモ代わりに使ったこともありました。でも結局、操作をする際に階層が多かったりということがあったり、カセットテープ感覚で操作できるTASCAMに戻ってきたというのが本音ではあります。
-デジタルになって多機能になると、どうしてもメニューの階層構造が深くなってしまいますよね。
田川:そうなんです。私の場合、見ながらの操作ではなく触りながら操作するので、グラフィカルな操作性だと結局買っても使えなかったりします。各社さんが精力的にMTRを作ってくださっていましたけど、今は録音環境がパソコンベースに移行しだんだん少なくなっていますよね。その中でこうしてMTRを精力的に作ってくださるメーカーさんは本当にありがたいですね。私は普段の生活では画面音声読み上げソフトでコンピューターを使っていますが、どうしてもPro Toolsとかのマウスで操作するDAWは使えないです。結局MTRの専用機を使わざるを得ないので、これは無くなって欲しくないな、むしろもっと進化して欲しいなって思いますね。
-TASCAMの現行機種である「DP-32SD」を使うようになったきっかけは何ですか?
田川:階層が少なくて、 カセットMTR 感覚で使えるものがないかなと、 TASCAM のサイトを読んでいると『DP-32』が発売されるというのを知って、それまであったMTRの2488neoのアップデートだなと思って。しかも今度は(記録媒体が)SD カードだと思って注目してたんですね。すぐ島村楽器さんに連絡してそれを買いたいってことで、その場で購入したというのがきっかけです。欲しいものが見つかったという感じですね。
現在の田川さんの創作活動を支えるDP-32SDのインタビューを動画で公開。レコーディングの実演もありますので、是非ご覧ください。

▲TASCAM「DP-32SD」
◉ 東京パラリンピック開会式に出演

田川: 2013年の9月に日本でのオリンピック/パラリンピック招致が決まったときに、「これは凄いことになったぞ、自分には程遠いかもしれないけど、あの舞台に立ちたいなぁ」と思いました。世界の舞台だし、それが日本で行われるなんて生涯ないかもしれないと思いまして、そこのステージに立ちたいという夢を持つようになりました。それから夫婦でその目標に向けての活動を始めました。色々な所に挨拶回りをして、「パラリンピックに出演するにはどうすればいいんでしょう?」ってプロフィールをもって二人で歩きました。そうこうするうちにオリンピック、パラリンピックに向けての応援行事にいくつか参加する機会に恵まれました。大きいところでは代々木第1体育館のステージに出させてもらいました。
ー先方からのオファーだとばかり思ってました。ずいぶん前から活動されていたんですね。
田川:そういった活動を毎年やるようになり、音楽部門のアンバサダーを務めるようになったこともあり、少しずつオリンピック/パラリンピックが近づいてきたことを実感しました。そんな折、ロサンゼルスで曲を作ろうっていうプロジェクトが立ち上がったんです。そのプロジェクトでオリンピック/パラリンピックに向けての曲を作りたいなと思うようになりまして、まずアメリカに行って現地では日本をどういうふうに見てるのか、その上で公式ではないけれども日本でのウェルカムソングを作りたいなと思いました。2019年に渡米し、帰国してから「Sky」という楽曲を持ってオリンピック/パラリンピックのステージでこの曲を演奏させていただきたいと挨拶回りをしました。「パラリンピック一年前イベント」という東京都主催の行事があり、そこからオファーが来ました。
ー地道な活動が実を結んできたんですね。
田川:はい。帰国したばかりでしたが、この「Sky」という曲を演奏させていただいて。公式のイベントだったので嬉しかったですね。さらに聖火リレーのイベントでも、「Sky」を演奏させていただくことができて、一つ夢がかなったなと思っていたときにパラリンピック開会式の出演者オーディションを一般公募するCMをみつけまして。そのCMになんと私が出てたんですね。「パラリンピック一年前イベント」のときの私の映像が流れていたんです。このCMに自分は出演しているけど、自分自身もオーディションに応募していいのかなと思ったんですが試しに応募してみたんですね。まずどういうふうにしたら第一次審査に通るかなと。文章と動画だったので、この審査で落ちるわけにいかないと二人で一生懸命いっぱい文章を考えて応募したら一次審査に通ったんです。それが2020年の2月ぐらい。今度の二次審査は面接だったんですね。面接にギターとちっちゃいアンプを持っていきまして、審査員の方がズラーっといらっしゃる前でギターをワーッと弾いちゃいました。それが2020年の3月です。その結果を待っている間に日本もコロナ禍に突入したんです。
ー審査結果どころじゃなくなった?
田川:オリンピック/パラリンピックはどうなっちゃうんだろう。まわりでは中止論、延期論がある中で「残念だなぁ、日本では開催されないのか」とずっと不安な状態で待っていました。そうこうするうちに中止ではなく延期になりそうという状況になってきたんですけれども、その度に事務局からメールで報告が来まして、メールが届く度に合格か不合格かドキドキするという繰り返しでね。メールが届いたと思ったらお詫び文だったりとか。そんな中で本当に直前なんですが今年の4月の終わりぐらいに二次審査を通過されました、との報告が来たんです。ここに至るまで8年かかりましたね。
ー長きに渡る歩みでしたね。
田川:ただ単に応募しました、受かりました、だけではない一つのストーリーが終わった、そういう意味では一つの夢が達成できたなっていう感じでしたね。
ー実際出演されていかがでした?
田川:やはり世界の舞台って素晴らしいなと感動しましたね。実際リハーサルから本番まで含めて、国立競技場でスタッフの方やアスリートの方、あと一般公募で審査を通った方々、キャストの皆さん含め、みんなの気持ちがもう一つの方向に向いているんですね。パラリンピックの舞台に出演して成功しよう、裏方の人も成功させようというキラキラしたオーラがあって、スッゴイ素敵な空間でした。その中でパフォーマンスをさせていただけるっていうのは本当に幸せなことで、あの国立競技場のリハーサルから本番までの空間ってもう異空間、夢の世界だったなと思うので本当にいい経験をさせていただいたなと思いました。
ー終了後もテレビ出演とかありましたが反応はいかがでしたか?
田川:凄かったです。かなり反応はありました。まずパラリンピック開会式が終わった直後に楽屋に戻って自分のiPhoneを開けると、Twitter上に「デコトラ」「布袋寅泰」その次に「田川ヒロアキ」とアップされてて「おぉバズってる!」と思ってすごく嬉しかったです。Twitterとか、ニュースサイトとかにも私達の名前が載ってて、それはやはり嬉しかったですね。「世界ってのはこういうことなんだ!」と思って。その後にも色々なお話をいただきまして、実際いろんな番組に出演させていただいたことも本当に嬉しかったし、皆さんに感謝だなと思いました。ここまで頑張ってきた成果が出たなぁと思って。でも、とにかくもう選んでいただけたことに感謝だなと思っています。



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